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その夜の記憶は、実花(みか)の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。
思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がる。
忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。
そんな種類の記憶だった。
◇◇◇
実花が夫の一ノ瀬恒一(いちのせ こういち)と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。
外の世界から切り離されたような敷地の中。
季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。
ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。
皺ひとつないクロス。
寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。
食器の反射すら計算されたような配置は、美しくあるが「正しさ」に支配された光景で、そこに人の温度はほとんど存在していなかった。
天井から吊るされたシャンデリアが白く強い光を放つ。
白い光がテーブルの上で瞬くたびに、冷えた陶器が無機質に輝き返している。
実花はいつもこの部屋だけが別の時間軸に置かれているように感じていた。
足を踏み入れ、正しさだけが許される場所につく。
そのたびに、自分が生きている世界の手触りを少しずつ失っていく感覚に襲われていた。
その場所は、本来なら妻である実花を歓迎するはずだった。
法的に実花は恒一の妻と定められていた。
妻として扱われ、妻として振る舞うことが許される立場として、そこに存在しているはずだった。
しかし現実は、その役割にいるとは到底思えない形で存在していた。
恒一の隣には当然のように別の女性が座っているからだ。
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「最近、少し痩せたんじゃないか」
その言葉はあまりにも自然に、あまりにも穏やかに発せられた。
だがその声が向けられたのは妻である実花ではなかった。
恒一の視線の先にいたのは、一ノ瀬美鈴(みすず)だった。
美鈴は一ノ瀬家の義両親の養女。
形式上は恒一の義妹という立場にあたる存在。
恒一は義妹だから可愛がっているという。
だが。
義妹――それでは説明がつかないほど、二人の距離は近い。
あまりにも自然に、恒一の隣には常に美鈴がいた。
恒一の優しさ、柔らかい声、わずかに眉を下げた微笑み。
全てが美鈴に向けられる。
義妹なのだから当然。
それでは、妻である実花にそんな当然はあったのか。
――なかった。
恒一の優しさも微笑みも、欠片すら実花に向くことはない。
元からそうだったわけではない。
だが、それらが自分に向けられなくなってどれくらい経ったのか。
数えようとしても、答えが定かではないほど過去のこと。
正確な数字はもう出てこない。
ただ、いつからかという感覚だけが鈍い痛みとして胸の奥に沈殿していた。
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実花は食事を機械的に口へ運ぶ。
噛むという行為だけを淡々と繰り返す。
味を認識する前に、次の動作へ移る。
食欲はない。
だが、それでも食べなければならないという強迫にも似た習慣だけが身体を動かす。
食事を残せば、朝になって本邸から来る使用人が不審に思う。
実花の体調が悪いと判断されれば、無用な騒ぎが起きる。
――それを恒一が嫌う。
恒一が嫌うことは問題として扱われる。
実花の『よい妻として』の立場を揺るがす。
だから、自分の体調すら管理対象として扱っていた。
ただ「問題のない妻」を演じ続けるために。
何があっても、いつも通りであること。
それが、恒一が実花に求める唯一のことだった。
そして、その「いつも通り」には美鈴の存在も含まれていた。
美鈴の身体が恒一にわずかに寄せられること。
食事の最中に、自然な動作としてその指先が恒一の腕に触れること。
本来なら視線が止まってしまいそうなそれらの動きを、実花は『気づかない振り』で処理しなければならない。
その振りこそが、この家で呼吸を続けるための唯一の方法だった。
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「大丈夫、少し仕事が忙しいだけだよ」
美鈴がそう言った声は軽やかだった。
空気をわずかに柔らかくする響きも持っていた。
「忙しい?」
恒一は首を傾げる。
美鈴は、視線をわずかに落としながら実花を見た。
「お義姉様から、いろいろ頼まれていて……あ、でも、大丈夫だから」
へへへ、と小さく笑う。
その笑いは、場の空気を和ませるためのものか。
いや、恒一の目を実花に向けるためのものだった。
美鈴の狙い通り、恒一の視線だけが実花へと移る。
「……実花」
名前を呼ばれた瞬間、実花はわずかに背筋を正す。
呼ぶ声に、かつて存在したはずの優しさはもう見当たらない。
感情の温度はない。
管理する対象を確認する。
そのための呼びかけに近いものだった。
「美鈴はお前の義妹であって、使用人ではない。こき使うな。何を考えている」
淡々とした指摘。
正しさを帯びた言葉。
その形だけを見れば『注意』として成立しているように見える。
だが、その中に実花を理解しようとする意図はない。
恒一が歓迎できない事象が起きた。
その結論だけが先にある。
そのための原因として、実花が配置されていた。
「……申し訳ありませんでした」
実花は即座に頭を下げる。
謝罪の形は完璧だったが、その言葉の中に真実の説明は一切含まなかった。
美鈴の発言は事実とは違う。
逆だ。
美鈴の仕事が、すべて実花に押しつけられている。
しかし、それを説明しても意味はない。
この場の構造、美鈴が庇われ、実花が叱られる形は変わらない。
そのことを、実花はもう理解していた。
だから言わない。
言っても無駄だと知っているから。
それだけではない。
言うことで“この先”を崩し、それを恒一が歓迎しないことを知っていたから。
すべて、茶番なのだ。
美鈴は実花が決して反論しないことを知っていて嘘を吐く。
恒一もまた、それ以上確かめようとはせず、実花を責める。
それらを『気づかない振り』で流す。
その『気づかない振り』こそが、実花に求められている役目。
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実花は静かに食事を続けた。
誰にも見えない場所で、確かに何かが削られていく感覚だけを抱えながら。
光也が車を降りる。助手席側へ回るのが見えて、実花は自分で開けるのを待った。しかし、扉の横に立ったものの、光也が扉を開ける気配はない。(何かあったのかな?)仕事で何かあったのだろうか。それとも真理のことで何か。扉を開いた。そして、実花へ手を差し出してくる。光也の表情を見ると、トラブルがあったようではない。(むしろ……楽しそう?)「実花、手を」「はい」実花は素直に手を重ねた。そのとき。「リアル王子様」「あの顔で『手を』、なんて言われたら正気ではいられない」(……え?)大きな声ではないけれど、確かに聞こえた。首を傾げつつも、実花は車から降りる。(何、これ?)歩道に人が数人集まり、こっちを見ていた。「顔、小さっ!」「めちゃくちゃ可愛い」数人に見られるくらいは想像していた。老舗宝飾店の前に停まった最新型のスポーツカー。どんな人が降りてくるのか。芸能人や有名スポーツ選手とか、期待しただろう。でも、想像以上の人数。しかも、何か感想を言われている。「良かったな、めちゃくちゃ可愛いそうだ」「……東国さん、これは?」実花の言葉に、光也が首を傾げた。「派手に振る舞えと言われただろう?」「いや、でも、どうやって?」ものの数分で、どうやったらこんなに?「目が合ったから手を振っただけだ」「それだけ、ですか?」光也は考える。「笑っていたかもしれないな」(それだっ!)「笑顔はやり過ぎです」「やはりそうか」「……え?」
光也の車で藤宮邸を出発してしばらく。助手席に座る実花は、隣でハンドルを握る光也をそっと見た。いつもと同じように見えるけれど、機嫌がいい。口元もわずかに緩んでいるようだ。「東国さん、楽しそうですね」「ああ」光也は前を向いたまま、あっさりと認めた。「思いがけず、実花とデートができているからな」「……っ」あまりにも真っすぐ返され、実花は言葉に詰まった。頬が熱くなる。実花はもう光也を好きだと自覚している。だからなのか。以前なら聞き流せた言葉が一つひとつ胸に響く。実花は誤魔化すように窓の外へ顔を向けた。「そ、そういえば、高峰さんからの指示は『派手に振る舞う』でしたよね」「俺と実花の仲の良さを見せつけて、俺が真理に心を揺るがしていないことを知らしめる……だったな」光也が少し考える。「なかなかの難問だな」「え?」実花は思わず光也を見た。「難しいのですか?」「真理なんぞが間にいないことを知らしめるなら俺の部屋に実花を連れていけば解決だ。だが、見せつけるとなると」光也が眉間に皺を寄せる。「何をすれば派手になるのか分からん」「……東国さんが?」「ああ」実花は驚いた。光也の行動は、普段から十分に派手だ。女子校前に堂々と車で迎えに来られる人だ。着ているものも、身につけているものも、本人は気にしていないようだが一目で上質だと分かる。「東国さんは、普段からかなり目立っていますよ」「そうなのか?」本気で不思議そうに聞き返された。「気づいていなかったのですか?」「目が向けられるのは分かっていたが、顔のせいだと思っていた」なかなかな台詞だと実花は感心した。「だから、人目を気にしたことはない」光也は興味なさそうに答えた。「だから、失敗しない限り、自分の行動を振り返ることはしない」光也が肩を竦める。「人目はどうしようもない。見るなと言えば、反応を見せたと余計に見られる」光也は面倒そうに眉を寄せた。「見るなと言えば話しかけたと判断され、話しかけられるキッカケになる。煩わしいことが増えるだけだ」「……東国さんらしいですね」実花は思わず笑った。人にどう見られているか気づいていないのではない。気づいても、自分に意味がないから意識から外している。「それなら」光也が少し考える。「俺が好きなようにすれば目立つというこ
「……なんだそれは?」藤宮家の玄関前。光也を出迎えた実篤は眉間にしわを寄せた。「実花にです。お義父上にではありませんよ?」「俺が花をもらってどうする」「飾ればよろしいでしょう」実篤との言い合いを聞きながら、実花は光也からもらった花束を控えていた使用人に渡す。「お部屋に飾っておきますね」「お嬢様宛てですものね」使用人たちがクスクス笑いながら、花を受け取る。実花は笑い、実篤も思わず苦笑したところで。「お義父上にはこちらを」「……なんだ、これは」「塩です。高峰さんから、ついでに塩を買ってきてほしいと頼まれました」「それで買ってきたのか?」「頼まれたので。どうぞ」差し出された塩を実篤が受け取る。「どこで買った?」「特別なブランド塩ではありませんよ。そこのコンビニです」「君もコンビニに行くのか」「一人暮らしの、料理のできない男が、コンビニなしで生き抜けると思っているのですか?」「自信満々に言うな。それなら料理を覚えろ」「お義父上はできるのですか?」「できんが、うちには料理人がいる」「いいですね。俺にも利用させてください」「飲食店のように気軽に来ようとするな」実篤は、大きくため息を吐く。「高峰から連絡があったということは、真理君のことは聞いたな」「一ノ瀬家からの依頼で興信所が探っているそうですね」そう言うと、光也は肩を竦めた。「何を探ろうとしているのかは想像ができますけどね」「そうなのか?」実篤が意外そうな声を出す。「なぜ、そんなに不思議そうなのですか?」「君は他人の気持ちになど一切興味がないのだと思った」「間違っていませんが、実花が勘違いをしたので『そうかな』、と」「実花がどんな勘違いを?」
「失礼します」朝食を終えたタイミングで、高峰が入ってきた。「旦那様」「なんだ?」「こちらを」高峰が差し出したタブレットを実篤が受け取るのを見ながら、実花はナプキンで口を拭いた。そして、部屋を出るために立ち上がろうとしたとき。「お待ちください」高峰が実花を止めた。「実花お嬢様にも関係することです」「分かりました」何が起きたのかと実花がわずかに緊張したとき。「おはようございます。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」「あ……おはようございます」高峰が実花に向ける笑顔は柔らかい。その笑顔を見ると、何かは起きたものの、差し迫った事態ではないのだと思えた。.「小童が……」実篤が喉から絞り出したような言葉に、実花はビクッと体を震わせた。「旦那様、言葉が乱れていますよ」「古語として見れば乱れておらん」「東国様に『これだから爺は』と言われますよ」「あの若造が……」(……東国さんって、お父様のことそんな風に言ったかしら)「ちょっと待て。いくらあいつでも、私のことを爺などとは言わないぞ」「そうでしたね。申し訳ありません。私の心の声です」「お前、いつも私のことを爺と罵っているのか?」「頭の中だけです」「罵っているじゃないか……全く同じ年で何を……」実篤はため息を吐くと、またタブレットに目を向ける。指で動かしているところを見ると、続きを読み始めたようだ。(東国さんとのやり取りに慣れた感じがあるわけだわ)実花が高峰を見ると、高峰がこちらを見た。「今日もいい天気でございますね」「そうですね」
同じ頃。薄暗い部屋で、恒一も同じ投稿を見ていた。机の上には、何冊もの雑誌が開いたまま積み重ねられている。どのページにも、光也と実花が並んで写っていた。ホテル。レストラン。結婚式場。広告の中で、実花は光也だけを見ている。そして今。スマートフォンの画面には、光也に抱き上げられ、安心したように笑う実花の姿が映っていた。恒一の指に力が入る。(実花の婚約者は、俺のはずだ)そう決まっていた。あの誕生日パーティーで、発表されるはずだった。実花もそれを望んでいた。いつも恒一を追いかけ、恒一に褒められようとしていた。恒一の妻になることを夢見ていたはずだ。それなのに。「どうして……」実花が光也へ向けている笑顔。恒一は、あんな笑顔を向けられた記憶がなかった。胸の奥に、苛立ちが湧き上がったとき。恒一のスマートフォンが震えた。表示されているのは【一ノ瀬美鈴】。『恒一さん、いま大丈夫?』美鈴の声に、恒一の表情は無意識に緩くなる。「ああ、どうした?」そう答えたとき、窓ガラスに映った自分に気づいた。楽しそうな表情をしていた。(なるほど……)美鈴との会話は楽しい。男女の関係になってからは、駆け引きも増えた。二人だけの秘密を持つ背徳感もあり、以前よりさらに楽しい。しかし、そうなる前も美鈴といるのは楽しかった。義妹だからと一歩引くときもあれば、義妹だからと甘えてみせるときもある。しかし常に自分を立ててくれる健気さがあった。(美鈴に嫉妬しているのか)自分が美鈴を大切にしているから。義妹に対してやきもちを焼くなどみっともないと思うが。(まだ十八歳なのだから、俺のほうが寛大になるべきなのだな
火曜日。実花が光也の会社でアルバイトをしていると、受付のほうがにわかにざわついた。「荷物かな?」社員の一人が顔を上げ、実花もつられてそちらを見る。やがてフロアへ入ってきたのは、一見すると配送業者にしか見えない人物だった。濃い色のシャツ。動きやすそうなパンツ。深く被った帽子。光也の会社に出入りしている業者の格好で、実花も見慣れているはずだった。その顔が真理でなければ。「こんにちは、東国光也さんはいますかー?」真理が片手を上げる。元気のいい声に社員たちの目が真理に向き、実花は慌てて光也の部屋に案内する。(真理って……)普段は女子生徒として整えられた姿しか見ていなかった。けれど今日は違う。制服の直線的な形が肩幅や骨格を際立たせ、いつもの中性的な雰囲気よりも男性らしさが強く見える。「格好いい……」光也の部屋に入ると同時に、その言葉はするりと口から出た。真理は驚いたあと、嬉しそうに笑う。「ありがとう」友人への素直な感想だった。実花にそれ以上の意味はない。しかし、実花が入ってきたため書類から顔を上げた光也は、その言葉に眉を寄せた。「何の用だ?」声が低い。「挨拶より先にそれ?」「仕事中だ」「実花がアルバイトをしている時間に来れば、二人ともいると思ったんだよ」真理は悪びれた様子もなく、光也の机へ近づいた。「その格好は?」「篠原真理がここに何度も来て、変に目立ったら困るからね」真理は帽子のつばを軽く持ち上げる。配送業者の制服なら、建物への出入りを不審に思われにくい。「それで、何の用だ?」光也がもう一度尋ねる。「この間のデートの反響を、二人と一緒に確認したくて」「反響?」実花は首を傾げる。先日の光也とのデート。食事をして、展覧会を見て、カフェにも立ち寄った。ただ二人で出かけただけのつもりだった。もちろん、政近へ見せつける作戦の一部ではあった。実篤がそのために記者を手配していたことも知っている。だが、実花自身は周囲の目をほとんど意識していなかった。実篤も「問題ない」と言っていた。「すごいことになってるよ」真理はスマートフォンを取り出し、画面を実花へ向けた。そこには、いくつもの投稿が表示されていた。【広告の二人、本当にデートしてた】【東国光也、婚約者への溺愛が隠せてない】【藤宮実花ちゃん
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい
あの夜は、ただ変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目がまだ曖昧なまま、痛みでふらつく頭を押さえながら実花は一人で寝ていた寝室からゆっくりと廊下へ出た。冷えた床の感触が足裏に伝わるたび、意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。声のする方へ向かったのは、意志というより反射に近かった。何が起きているのかを考える前に身体が勝手に動いていた。そして、すぐに分かった。何の声か。何の音か。理解してしまった瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。美鈴の甲高い声は快感を訴え、「もっと」と甘えるように揺れていた。それに応える恒一の唸り声は理性を削ぎ落とされた獣のようで、実花の知る“夫”という存在
「全く……美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、まるで最初から用意されていた結論を読み上げるかのように自然だった。迷いも逡巡もなく、恒一の口から滑り落ちる中に実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる―――困り方すら整えられていた。自分がどう振る舞えば最も『恒一に大事にされる存在』として成立するか、それを計算した振る舞いだった。「今夜はこの前置いていった服をとりあえず着ればいい。明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一は即座にそう言い切った。その声音には、『こうするのが当然』というような親密さが滲んでい
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……そ