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愛されること~夫と義妹に殺されたので、今世では悪女になります
愛されること~夫と義妹に殺されたので、今世では悪女になります
Penulis: 酔夫人

第1話 気づかない振り

Penulis: 酔夫人
last update Tanggal publikasi: 2026-05-09 10:37:53

その夜の記憶は、実花(みか)の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。

思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がる。

忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。

そんな種類の記憶だった。

◇◇◇

実花が夫の一ノ瀬恒一(いちのせ こういち)と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。

外の世界から切り離されたような敷地の中。

季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。

ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほど完璧に整えられたテーブル。

皺ひとつないクロス。

寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。

食器の反射すら計算されたような配置。

それは美しくはあるが「正しさ」に支配された光景で、そこに人の温度はほとんど存在していなかった。

天井から吊るされたシャンデリアが白く強い光を放つ。

白い光がテーブルの上で瞬くたびに、冷えた陶器が無機質に輝き返している。

実花はいつもこの部屋だけが別の時間軸に置かれているように感じていた。

.

足を踏み入れるたび、正しさだけが許されるその場所に自分を置く。

そのたびに、自分が生きている世界の手触りを少しずつ失っていく感覚に襲われていた。

その場所は、本来なら妻である実花を歓迎するはずだった。

法的に実花は恒一の妻と定められていた。

妻として扱われ、妻として振る舞うことが許される立場として、そこに存在しているはずだった。

しかし現実の実花は、妻という立場にいるとは到底思えない扱いを受けていた。

恒一の隣には当然のように別の女性が座っているからだ。

·

「最近、少し痩せたんじゃないか」

その言葉はあまりにも自然に、あまりにも穏やかに発せられた。

だがその声が向けられたのは妻である実花ではなかった。

恒一の視線の先にいたのは、一ノ瀬美鈴(みすず)だった。

美鈴は一ノ瀬家の義両親の養女。

形式上は恒一の義妹という立場にあたる存在。

恒一は義妹だから可愛がっているという。

だが。

義妹――それでは説明がつかないほど、二人の距離は近い。

あまりにも自然に、恒一の隣には常に美鈴がいた。

恒一の優しさ、柔らかい声、わずかに眉を下げた微笑み。

全てが美鈴に向けられる。

義妹なのだから当然。

それでは、妻である実花にそんな当然はあったのか。

――なかった。

恒一の優しさも微笑みも、欠片すら実花に向くことはない。

元からそうだったわけではない。

だが、それらが自分に向けられなくなってどれくらい経ったのか。

思い返そうとしても、答えが定かではないほど過去のこと。

正確な数字はもう出てこない。

ただ、いつからかという感覚だけが鈍い痛みとして胸の奥に沈殿していた。

.

実花は食事を機械的に口へ運ぶ。

噛むという行為だけを淡々と繰り返す。

味を認識する前に、次の動作へ移る。

食欲はない。

だが、それでも食べなければならないという強迫にも似た習慣だけが身体を動かす。

食事を残せば、朝になって本邸から来る使用人が不審に思う。

実花の体調が悪いと判断されれば、無用な騒ぎが起きる。

――それを恒一が嫌う。

恒一が嫌うことは問題として扱われる。

実花の『よい妻』としての立場を揺るがす。

だから、自分の体調すら管理対象として扱っていた。

ただ「問題のない妻」を演じ続けるために。

何があっても、いつも通りであること。

それが、恒一が実花に求める唯一のことだった。

そして、その「いつも通り」には美鈴の存在も含まれていた。

美鈴が身体を恒一にわずかに寄せること。

食事の最中に、自然な動作としてその指先が恒一の腕に触れること。

本来なら視線が止まってしまいそうなそれらの動きを、実花は『気づかない振り』で処理しなければならない。

その振りこそが、この家で呼吸を続けるための唯一の方法だった。

.

「大丈夫、少し仕事が忙しいだけだよ」

美鈴がそう言った声は軽やかだった。

その響きには、場の空気をわずかに柔らかくする軽さもあった。

「忙しい?」

恒一は首を傾げる。

美鈴は、視線をわずかに落としながら実花を見た。

「お義姉様から、いろいろ頼まれていて……あ、でも、大丈夫だから」

へへへ、と小さく笑う。

その笑いは、場の空気を和ませるためのものか。

いや、恒一の目を実花に向けるためのものだった。

美鈴の狙い通り、恒一の視線が実花へと移る。

「……実花」

名前を呼ばれた瞬間、実花はわずかに背筋を正す。

呼ぶ声に、かつて存在したはずの優しさはもう見当たらない。

感情の温度はない。

管理する対象を確認する。

そのための呼びかけに近いものだった。

「美鈴はお前の義妹であって、使用人ではない。こき使うな。何を考えている」

淡々とした指摘。

正しさを帯びた言葉。

その形だけを見れば『注意』として成立しているように見える。

だが、その中に実花を理解しようとする意図はない。

恒一にとって好ましくない事態が起きた。

その結論だけが先にある。

そのための原因として、実花が配置されていた。

「……申し訳ありませんでした」

実花は即座に頭を下げる。

謝罪の形は完璧だったが、その言葉の中に真実の説明は一切含まなかった。

美鈴の発言は事実とは違う。

逆だ。

美鈴の仕事が、すべて実花に押しつけられている。

しかし、それを説明しても意味はない。

この場の構造――美鈴が庇われ、実花が叱られるという形は変わらない。

そのことを、実花はもう理解していた。

だから言わない。

言っても無駄だと知っているから。

それだけではない。

言うことで今の均衡を崩し、それを恒一が歓迎しないことを知っていたから。

すべて、茶番なのだ。

美鈴は実花が決して反論しないことを知っていて嘘を吐く。

恒一もまた、それ以上確かめようとはせず、実花を責める。

それらを『気づかない振り』で流す。

その『気づかない振り』こそが、実花に求められている役目。

.

実花は静かに食事を続けた。

誰にも見えない場所で、確かに何かが削られていく感覚だけを抱えながら。

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